特集:
・風光的建物探訪(7):編集部(写真・松原)
・知識を得る場、学校という建物:松原 和幸(写真も)

風光的建物探訪(7)
旧古間小学校

国道18号線を古間で逸れて、野尻湖の南側や飯山方面へ向かう街道沿いにひときわ目立つ建物がある。学校らしい、というのは誰もが感じるだろう。映画で見たような、古い時代へタイムスリップしたような、そんな気になる佇まいの建物だ。

外観

明治41年12月16日、古間尋常小学校は火災のために全校舎を焼失した。同43年6月に本建物は竣工し、以来昭和50年にスルルギ分校と統合して富濃の地に移るまでの68年間、学舎として使用されてきた。町は町有の建築物としては唯一の明治の校舎を後世に伝えるため、町立公民館として使用することにし、昭和53年に改修工事を行っている。

その改修の竣工式典の記録に純木造ながら一等材を集めての堅ろうなこの本屋は周囲の環境とよく調和し、六十余年の哀歓を秘めた学舎は風格に満ち、住民の心のよりどころとしてふさわしく永久保存することに与論は喝采した。としたためられている。

確かに、90年もの年月を経てきた今でも、歪みや軋みもなく、公民館としての日頃の使用に十分耐え得ている。設備面では現代のものと比べると不便もあるのだろうが、良いものを残し、ただの飾りでなく、管理しながらきちんと利用していくという考えがこれからの良い模範となってくれたらと願わずにはいられない。信濃町にはこんな気になる建物がまだ多くある。


知識を得る場、学校という建物

今回の建物は古間にある尋常小学校である。公共施設はいつの時代もなけなしの血税で造られるので、バブルのような例外を除いて何を建てるのかというのは政治的に非常に重要な要素となる。教育施設が必要とされた時代の小学校とはどんなものか。

教育県としての長野県:

長野県は、教育県という俗称の通り教育に熱心なところである。それは随分と昔からだったようで、資料によると県内で一番古い寺子屋が出来たのは1469年、その後を含めて資料に載っている数は全国一とある。

明治に入ってもその傾向は変わらず、たとえば長野県が統一された明治9年は、東京や大阪をおさえて就学率全国一だったらしい。そのために明治時代の教育機関、特に長野の小学校は近代建築として有数の学校が残されている。松本の開智学校や中野市の中野学校などはその典型である。

当時は建設資金をほとんど地元で負担していたようで、その経済力、教育に対する理解も含めて驚愕するものがある。

場所について:

公共建築では、その地域内のどの場所に建てるのかということは、その建物の用途の業界に対してどの程度重要に考えているかということの証である。

背後に山を抱え、前面に平地を望み、ほぼ南向きで日当たりが良く地盤の水はけも良さそうである。近くには川も流れている。こうした環境の良さは周辺にある植物の種類の多さや繁殖状況にも見て取れる。現場で短時間の取材時にはわからなかったがきっと良い風が吹くのであろう。中心地ではないかもしれないが、こういう場所に建てられたということはそれだけ大事にされていたということになる。

建物の解説:

竣工は明治43年。記録ではその前の明治41年に火災による焼失の後、明治43年に再建されているとある。元々の学校はそれより以前の明治期に建てられたと思われる。その後改修され、現在では公民館として使用されている。

木造2階建てで、外壁は下見板張り、屋根は寄せ棟で現在はカラー鉄板が葺かれている。窓は木製で二重窓(現在は内側がアルミサッシ)で、白色系の塗装となっており、以前取材した信濃町伝道所と同じような仕上げとなっている。

車寄せ

明治初期の小学校は擬洋風が多く流行っていたようであるが、この時代になるとそういった制約から少しずつ開放されつつあったようで、ゴテゴテの洋風にはなっていない。

資料を見ていくと中野市の中野学校に似ている部分が数多くある。車寄せの三本の角柱やその太さ、階段の手摺のディテールといい窓の大きさやその開き方といい、設計要項の様なモノが既に出来ていたかどうかは不明だが、竣工時期が比較的近かったり中野市が旧長野県の県庁所在地であるところからも、参考にしているのだけは間違いないようだ。

建物の特徴としてまず目に付くのは、窓や玄関廻り、内部廊下突き当たりの開口部で、全てが大きく透明なガラスが使われているので、視線が途中で止まることなく遠くまで見渡すことができる。当時はまだ国産品がなく、かなり高価だったと思われるガラスが贅沢に多用されている。特に窓と玄関廻りのガラス部分の大きさはかなりのモノで、光だけでなく、外部からの新しい知識を受け入れる用意が十分であったといえる。

教室では外壁側と廊下側では明るさが異なってくるので、それを最小限に防ぐために天井の高さと窓をなるべく高く取っている。明治初期の擬洋風の学校ではまだまだ窓が小さく取られていて内部は暗かったはずである。大きく高さのある窓を開けることは現代ではごく普通に行なわれているが、その手法はこの当時始まったばかりだと思われ、教育の現場と教育組織の上層部のコミュニケーションが十分に取れていたことも合わせて推測される。

階段

全体としては開智学校の様な派手な装飾はされていないが、車寄せの部分に少し装飾があり、角部分の柱が三本一組となっている(写真参照)。

外壁の下見板や階段の踏み板、手摺やそれを支える柱(写真参照)、窓枠、壁と天井との間の回り縁、壁と床との巾木などすべての部材が太くそして荒く仕上げられている。材料もよく吟味されているようで階段の踏み板など幾多の児童が登り降りしたにもかかわらず、すり減ってもいないし登り降りしてもきしみ音もない。他の部材も大きな狂いもなく現在に至っている。

窓や出入り口の建具は建物の中で精度を要求されるところなので、古くなると立て付けが悪くなったりするのだが、そういったこともほとんどなく開閉出来ている。なかでも基礎や構造は実にしっかりしていて、礎石による基礎を施し、90年に渡り多量の積雪に耐え、時間の経過にあいながら未だに狂いが少ない。

建物から観る当時の教育と現代の教育の比較:

最近の学校、特に高度経済成長時代以降の義務教育の学校を見てみると、すべて同じ設計図をそのまま使ったのではないかと思うくらい、どれも同じプランで同じ外観、そして無味乾燥な吹き付け塗装、内部は塗装だけといった安普請な作り方となっている。装飾がなくても機能を追求していればそれはそれで美しいのだが、そういった機能美もなく、かといって装飾もなく、すべてがなし崩しに造られている場合が多い。これらのことはプロテスタント的な質素という解釈ではなく、本質的に教育に力を入れていないというふうにしか見えない。

自衛隊の中で官舎というものを見たことがあるが、なんの装飾もなく丈夫さが取り柄の同じ建物が碁盤の目のように等間隔で規則正しく並んでいた。普通出入り口くらいはなんらかの装飾をするのだがそれすらもなく、ただ出入り口があるだけであった。それらは機能を追求し無駄を省くという役割もあるのだが、それよりも自衛隊の組織構造であるトップダウンを的確に表現していた。軍隊の整列や行進の時、規則正しく全員が一糸乱れない動作をさせるのと同じ考え方である。

それと同様で現代の校舎は、上層部が下を支配しているという組織構造をそのまま表現している。つまり文部省という頂点が、下に向かって同じ価値観を植え付け、上からの指令を受け入れるだけで指示されないと動けない、思考したり新しい価値を創造したりする能力を養わない、扱いやすい国民を作ることを目的としているという現代の教育環境を、建物からも見て取れるのである。

現代でこのようなトップダウンによる組織構造を探すと、身近なところではコンビニエンス・ストアがある。店舗のデザインはもとより、仕入れの品目・数量まですべてフランチャイズの親会社より指示されるというツリー構造となっている。店舗はタダの末端で、そこではストアのオーナーだけでなく買い物をする顧客にも、結果的に同じ価値観を強制し、同じモノを食べて同じ雑誌を読むという柔らかい強制を強いている。

それに比較してこの小学校はどうだろう。明治初期の長野県他地域の小学校のように派手で、文明開化に素直に憧れている訳ではなく、すこぶる個性的でもないが、基礎や構造、窓の大きさなどかけるべきところにはお金をかけ、少しの装飾と優れた仕事で仕上げされている。信濃町伝道所のところでも述べたが、この手の様式はアメリカ経由のものである。

考えてみれば、江戸時代を終わらせ、不平等条約を押しつけられた国に学び、その様式を取り入れることはさぞ悔しかったと思うのだが、そんなことはお構いなしに相手の文化を取り入れ、1日でも早く国力を付けようとし当時の世界の流れに乗り遅れまいとする大きなエネルギーを垣間見た気がする。

また、この連載を始めた当初は設計者が同じ建物が続いたこともあり気にしていなかったのだが、こうして今までに取り上げた建物を観ていくと、野尻周辺に介在する共通のものが徐々に見えてきたような気がする。

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