報道写真集『野尻湖』(林謙一著)のこと

 

青木 三郎

 

 

 野尻湖別荘協会(NLA)のイヤーブック編集を5年間担当した。前任者のジャンセン・ 茜さんが始めた「隣人を知ろう」Know Your Neighboursという欄を引き継ぎ、東神山 のサマーストアをまかなっていらした中村郁子さん、弁天島で売店をあずかっている 小林さん、古間盆踊りの保存会の高橋さんなど、野尻になじみのある何人かの方のエ ピソードを紹介した。ある日、この欄で紹介してみてはどうか、と国際村の古い日本 人メンバーの一人、石井洋さんが『報道写真集 野尻湖』という写真集を見せてくだ さった。林謙一という写真家が、昭和15年の夏に撮った野尻のモノ黒の写真集であ る。見ると、とても日米開戦の前年とは思えない、牧歌的な写真が収められている。 外人村の人たちのヨットで遊ぶ姿、家族でとる朝食、礼拝堂での説教。YMCAのキャン プファイア、丸眼鏡をかけ、肩を組み合う青年たち、YWCAの女の子たちの歓声、暖炉 を囲んだ夜の集い、県営野尻湖ホテルに泊まって休暇を楽しむ家族、キセルをくわえ て湖畔で外人さんをながめる地元の老人、蚕の世話に余念のない農婦、赤ん坊を背 負った野尻村の少女たち...とても今から62年前とは思えないほどに、野尻は変 わっていない、昔のままだ。変わったのは、もう蚕を飼わない野尻村の人たちの生活 だけだろう。

 

 しかし、いったい、なぜ、これが「報道写真集」なのか。林謙一という人はなぜ野 尻湖を写真に収めたのか。そもそも林謙一とは何者なのか? この本を貸してくだ さった石井さんもあまりよくご存じではなかった。そこで、何とか、この本のことを 調べてイヤーブックに一文を寄せようと思い立った次第である。わずかに知っていた 情報は、林謙一が、昭和40年代にNHKの朝の連続ドラマ『おはなはん』の原作者であ ること。息子の秀彦という人の夫人が女優の富士真奈美だったということである。東 京港区愛宕山にあるNHK放送博物館や、松山出身の友人に頼んで『おはなはん』の背 景、松山のことなどを調べているうちに、画家の田坂ゆたかさんから、林謙一の葬儀 に参列した話や、遺族のおひとり屋山鳩子さんの連絡先などをお聞きすることができ た。林謙一には、2人の息子と末娘の鳩子さんの3人の子どもがいることが分かった。 鳩子さんに電話でお話をお伺いしたところ、ちょうど昭和15年、『野尻湖』の写真集 が出版された年にお生まれになったとのこと。だからこの写真集のことも、この頃の 父親林謙一のこともご存じないということだった。

「私よりも、この頃の父のことでしたら、笹本恒子さんという方がよくご存じだか ら、ご連絡をとってみたらいかがでしょうか」

 そういうわけで、笹本恒子さんにお電話で連絡をとったのが、今年の6月のことで あった。笹本さんは、

 「林謙一のことを知りたい……って、どのようなことをお調べなのでしょうか。 『野尻湖』という写真集もありますけれども、今は、屋山鳩子さんに差し上げてし まって、私の手元にはございませんのよ」

といって、突然の電話口の男の声に、警戒の調子でお話なされた。事情を説明する と、少しご理解くださって、林謙一のことを教えてくださった。

 「林先生は、戦前、東京日日新聞の社会部の記者をされていました。報道班員とし て中国大陸に派遣されていたのだけれど、その頃でしょうね、日本の宣伝戦−プロパ ガンダがドイツなんかに比べると、とても遅れていることを痛感なさったのね。日本 にお戻りになって、内閣情報部、陸軍省、海軍省、外務省、鉄道、商工省などに働き かけて、「日本写真協会」をお作りになったんです。林先生は、特派員時代におひと りでライカを使って中国戦線をお撮りになってたんだけど、ドイツの写真宣伝班の組 織力と、その規模を見て、これじゃ、日本はいけない、と思ったわけです。私は、写 真協会の設立された昭和14年に林謙一さんにお会いして、そのとき林先生から、

 「日本にはまだ女性の報道写真家がいない、アメリカではマーガレット・バークホ ワイトという女流写真家が『ライフ』誌で活躍している。あなたも、どうです、報道 写真家になってみたら」

と勧められて、日本写真協会に入社することになったんです。日本の女性報道写真家 第一号というわけね。報道写真というのは、何も、戦場の激しい戦闘場面や、何かの 大事件の劇的瞬間を写真に撮るというのとは違いますの。林先生は、いつも、生きて いる写真、動きのある画面、物語を感じさせる連続性、パンチのきいた画面が大切だ とおっしゃってましたね。クライマックスだけを撮るのではなくて、その前後の説明 が必要で、何枚かの組写真で一つのテーマを作っていくのね。入念にコンテを描くの がとても大切なんです」

 笹本さんのお話は、立て板に水を流すようによどみがなく、電話口でメモをとるの が精一杯だった。しかし、よく昔のことを昨日のことのように鮮明に覚えていらっ しゃるなぁと、舌を巻いた。お話をお聞きしていて、なぜ、『野尻湖』が報道写真集 なのかが少し分かった気がした。野尻湖畔の生活をひとつの連続性の中で捉え、それ を撮ることによって、湖畔の物語=歴史(history=story)を浮き彫りにしたのでは ないか。実際、彼は昭和15年7月末日、上野から夜汽車で柏原駅に着き、徒歩で野尻 湖畔に向かい、日の出前の野尻村の風景から始まり、湖水に浮かぶ白いヨットの帆、 ヨットの中で陽気に遊ぶ外人家族、外人村の朝、アメリカ人の子どもたちの遊戯、と いうふうに、遠景、近景のショットを綿密に計算して配置していることに気がつくの である。一回目の撮影は7月末から2日間で行い、それに再び秋の野尻を訪れて、村の 生活を写真に収め、すでに10月には第一刷が発行され、数年の間に数回増刷されるほ どの成功を収めている。林謙一の報道写真の方法と実践がこの写真集なのである。こ の林謙一の手法を受け継ぎ、報道写真家として戦後も活躍されたのが笹本恒子さんで ある(注1)。笹本さんの半生記でもある『ライカでショット−お嬢さんの昭和奮戦 記』(清流出版)は、「この一冊を、故林謙一氏のみ霊に捧げます」という献辞で始ま る。この本の再版が、2002年7月27日。ちょうど、林謙一が昭和15年に野尻湖に足を 運んだ、その日である。偶然とは思えないような偶然である。

 

 

 笹本さんは、昭和16年に結婚され、新婚旅行で赤倉、野尻、上高地を訪れられてい る。その時にお撮りになった写真は、ほとんど戦災で焼失してしまったとのことで あった。昭和18年にご主人の召集令状が迫ってきたのを感じ、今生の思い出にと、再 び野尻湖を旅行された。戦災で全部失ったと思っていた写真が、探してみたら、60年 ぶりに出てきた。

 「ありました。わずかですけれど、当時の野尻のスナップ写真が出てきましたの よ。もうなつかしくて、なつかしてくて。今は野尻湖も変わってしまったでしょう ね。でも、あたなにぜひお見せしたいわ」

 笹本さんからお電話をいただいたのは、大学の研究室で授業をしていたときであっ た。一度お電話しただけの方なのに、電話口の笹本さんの声はまるで少女のように弾 んでいた。野尻湖の思い出を分かち合いたいというお気持ちに、素直に感動した。  今夏、笹本さんを野尻にお招きし、昭和16年に訪れた「外人村」、コーヒーを飲ん でおしゃべりしたというクスノキベーカリーのあたり、お泊まりになった野尻湖ホテ ル、そして赤倉観光ホテルなどをご一緒に見て歩く機会を得た。すべては昔のまま、 というわけにはいかない。しかしその中でも変わらないのが「外人村」であった。村 長さんや、昔を知る他のメンバーの人たちと会い、報道写真集『野尻湖』を中心に話 が弾んだ。国際村の礼拝堂(オーディトリアム)には、スキャナーで複写した『野尻 湖』のNLA関係の写真40枚が展示してある(注2)。写真にあるクスノキベーカリー や、和服姿の若い女中さんたちのことは、当時を知る人の記憶の中にしかない。笹本 さんのお泊まりになった思い出の野尻湖ホテルは、今は立ち入り禁止で、草がぼうぼ うに生い茂り、廃墟である。

 「でも、行ってみましょうよ。連れていってちょうだい。」

報道写真家笹本恒子は、あくまでも、好奇心の塊である。崩れ落ちかけている藁葺き 屋根の入り口。中も荒れ放題のようだ。

 「あら、ここよ、ここだわ。ここのお部屋に泊まってね、こちらから、降りて行く と、湖畔のボートのところに出るのよ」

 このように変わり果てた姿が、実は、バブル経済のはじけたわずか数年前のことで あったのが、かえすがえす残念でたまらない。

 「林さんはね、戦後は、趣味の絵の方に力を入れていました。チャーチル会という 日曜画家の集まりがあって、それの世話役のようなことをしてましたね。いつもお話 が上手で、面白くて、あの人のお話をお聞きしていると、のせられちゃうのよ。でも お話や写真に比べると、はっきり言って、林さんの絵はあまり面白くない風景画が多 かったですね。どうしてなのか、わたしもよく分からないわ。東京の信濃町にお住み になっていて、そういえば、この野尻も信濃町ね、何かのご縁かもしれないわね。無 宗教の方でしたけれど、お葬式は教会でなさったわ。訃報を新聞で読んで、葬儀にか けつけたのだけれど、涙がとまらなくてね。理屈ではないのよ、体の奥底から声が出 てきて、抑えられないの。まわりの人はみんな神妙なのにね。号泣したのよ、恥かし かったわ。林先生は私の命の恩人です」

 このお話を野尻湖畔の風に吹かれながらお聞きしていると、報道写真集『野尻湖』 が単なる写真集ではなく、林謙一が笹本恒子に無言のうちに伝授した報道写真の原点 であり、それが笹本恒子の仕事を通じて昭和の報道写真として様々に花咲き、そして また、60年を経て、野尻湖に舞い戻ってきた、という不思議をしみじみかみしめるの である。

 戦後、日本は変わった。人も、物も、心も。けれども、『野尻湖』の写真を見る と、思わず誰もが言うだろう。「今と変わらないね」と。何か、大切なものにふれた 気持ちになるのはなぜだろう。このことは、よくよく考えてみなければいけない。  笹本さんは、近々、「60年ぶりの野尻湖」という随筆をお書きになるそうだ。きっ と味わいのあるフォト・エッセイだろう。今から拝読するのを心待ちにしている。

注1  笹本恒子写真集『昭和・あの時・あの人』(Bee Books、2001年第2刷) 注2 『報道写真集 野尻湖』の写真の転載、使用に関しては、屋山鳩子氏の許諾とご 理解を得た。多謝。

 

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