2005年12月冬 ● 編集発行 ● 野尻湖フォーラム
 
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しとやかな恋人

柴田優子


 湖のむこうに広がる紅葉の山を見ながら、誰一人通ることもない静まり返った周遊道路を朝な夕なに歩いていると、秋らしい冷涼な空気の中に、水面が私の心のひだを映し出して、越し方や行く末を振り返って自分を見つめ直す充実した時間を過ごすことができます。こんな豊かで潤いのある気持ちを感じながら過ごすことの出来る場所にいることがうれしく、野尻湖が私にもたらす幸せをかみしめることができます。

 国際村を縁取る周遊道路を、こうして今年(2005年)の秋から歩いて気軽に楽しめるようになったのも、長年の湖とのお付き合いを一層深めたいという思いで探し続けていた湖に近い場所に、念願のセカンドハウスが完成したからです。この秋は、紅葉の進み具合がいくらか遅いのかもしれませんが、ななかまどが赤く色づいていなくても、落葉松が少し緑がかっていても、他の木々の黄色や橙色が野尻湖に映えて美しい光景を堪能しました。

 これから深い雪におおわれる時期がきて、それから雪解けの早春のころの若葉が、日に日に目にとびこんでくる生命感あふれる季節を迎えるのも、今度はじっくり見守ることができます。そして、そのあと溜め込んだエネルギーを一気に爆発させるように生育を早める深緑の木々、強い夏の日差し、黒姫や妙高の山の稜線を見ながら大好きな水とたわむれるスポーツができる日々・・・。野尻湖の一番にぎわう時を来夏には長期にわたり遊ぶことができそうです。これから大好きな野尻湖との日々も一層密接になりそうです。

 日本の中には心に残る場所も多い中で、この野尻湖に虜になっている私ですが、実はこの湖とのつながりは遥か戦国時代にさかのぼるということが最近わかりました。

 野尻湖を最初に訪れたのは大学生のころの60年代の後半で、戦前から長い間国際村にキャビンを持っていた伯父と伯母が招待してくれたからでした。この伯母は画家で(絵描きとしての名前は出張(でばり)美千子)、終戦直後の雑誌「赤とんぼ」の表紙の絵を描くなどしていましたが、伯父との結婚後はもっぱら外国勤務の伯父に従い趣味として絵を描いていました。伯父の東京の家に行くと伯母の描いた野尻湖の絵があり、子どもの頃から野尻湖の名前は聞いて知っていました。何より伯父は、伯母を深く知るようになったのが野尻湖の国際村に疎開していた時代の伯母だったので、馴れ初めをうれしそうに話すのが常でした。野尻湖は伯父そして伯母にとっても特別な場所だったようでした。そして初めて訪れた大学生の私には、野尻湖は他の日本の観光地と違って感じられ、静かな湖を従弟がヨットに乗せてくれたり、お弁当を持って国際村のヨットハーバーから湖の反対側にピクニックしたり、外国にいるような気がして印象がとても鮮烈でした。その後私も結婚して、夫と二人で伯父のキャビンに押しかけたりして、二人ともすっかり野尻湖が気に入りました。この伯母は昭和53年(1978年)に、そして伯父は去年(2004年)に亡くなりました。伯父の自費出版した自伝「身辺あれこれ」を最近読み返していたところ、伯父の祖父(私から見ると曽祖父)は上杉謙信の重臣柿崎和泉守影家の子孫だということが書かれていました。国際村伯父はその祖父からこの川中島合戦で大活躍をしたということになっている和泉守の勇猛な「もののふ」ぶりを子どもの頃から語り聞かされていたとのことです。もっとも小説などでは「悪役」として描かれているようで、時代小説のドラマなどで実情が知られるようになってきた私の時代には聞かされたことはありませんでした。この伯父の自伝で初めて知った次第です。自伝には、この和泉守が「戦闘にあけくれる歳月の間に」同じ「上杉謙信の重臣の直江山城守(直江与兵衛実綱?)と野尻湖の弁天島で酒宴をはりながら中秋の名月を楽しんだという話を」「高校時代に本で読んだ」と書かれていました。もとより公に発表目的のない一個人の先祖からの語り継ぎの話に発しているのですが、現在も琵琶島は弁天島ともいうとありますし、謙信の重臣の宇佐美定行の墓があり、謀反人長尾政影を諌めようとして果たせずに、わが身を犠牲にして二人で野尻湖に沈んで果てたという話も伝わっています。謙信の重臣が何かと訪れていたということで、伯父の書いているように私の先祖にあたる柿崎和泉守も、この地に出向き、野尻湖の月や風物を愛したことはありうる話のような気がしました。

 この伯父の自伝を読んで、上杉謙信の時代からのつながりを知り、切れぬ絆で結ばれていたのかと、いにしえを偲び、祖先への思いを馳せ、改めて野尻湖の水面を見つめたことでした。

 亡くなる前に伯父は、伯母の描いた野尻湖の絵を私に譲ってくれました。戦前から始まり、亡くなるまでにたくさん描いた野尻湖の国際村の水泳場付近や周辺の絵が今私達の東京と野尻湖の家にいくつか飾られています。現在もその絵をみれば、どことすぐわかるように、伯母が疎開をしていた戦前や伯父と知り合った終戦直後とあまり変わらない風景の作品を日々見ながら、野尻湖の自然環境がその美しさを知る人に守られながら、いつまでも変わらずにあることを願っています。野尻湖は芙蓉湖ともいわれます。芙蓉の花言葉は「繊細な美」であり「しとやかな恋人」だそうです。上品に咲く芙蓉の花の花びらの形のような湖は、高貴に、名所観光だけを求めるだけの観光客には迎合せず、凛として、自然を含めて伝統を守りぬくという姿勢を顕示することが今後の存続につながっていくように私は思っています。そう、野尻湖を愛する人誰にとっても「しとやかな恋人」として・・・。

 

*プロフィール*
東京在住。新別荘人。

 

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