2006年4月春 ● 編集発行 ● 野尻湖フォーラム
 
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父の見た湖、父を見た湖

福田哲也


 父が、うんと若い頃野尻湖を訪れていたことは、僕の大学生活がいよいよにっちもさっちもいかなくなり、黒姫で仕切り直しをすると決めたとき父の口から初めて聞いた。昭和天皇の病状が、ニュースのトップで連日報道されていた昭和63年暮れのことである。

  「縁もゆかりもない地」をそのときの僕の心理は求めていて、そのとおりの場を得たと喜んでいた。ところが実はすでにおやじの足跡がついていたというわけで、ちょっと出鼻をくじかれた感じがしたことを覚えている。父の旅路が、「なりたての国語教師が、国文学へのたゆまぬ向学心から、一茶のふるさとを訪ねた」のであったのに対し、僕の旅立ちが、「どん底からの解放、もしくは逃避」の色を帯びていることに、あるいは引け目を覚えたのかもしれない。

 今年の六月、次女の一歳の誕生日を祝いに、はるばる九州から出てきてくれた父に、その旅のことを詳しく聞いておこうと思うまで、父と僕の間で、それが話題に上ることはまったくと言っていいほどなかった。だから、父の旅について抱いていた僕の先入観に変更が加わることはなく、わが父ながら、その生真面目さをちょっと誇りに思っていた。だが聞いてみると、どうやら僕の思っていたのとは、ずいぶん趣の違う旅であったようだ。

 「山口、お前ゃ、長崎から出たことのなかちゅうとは、ほんなこつな」
長崎県の片田舎で、国語の教師としての最初の一年を刻んだばかりの新米教師山口守に、先輩の元橋が声をかけた。それは事実だった。だが貧乏百姓の末っ子として生まれた山口にとって、それは赤面すべきことではなかった。高校、大学を出させてもらったということが、すでにきわめて特別なことであった。それでも元橋は手厳しく、
「そがん事(こつ)で、教員の務まるもんか」
元橋が意地悪でそんなことを言ったのでないことは、それに続く言動が証明する。
「こん金で、旅どんして見聞ば広めて来い」
こういって、月給2ヶ月分ほどの金額が記帳された通帳を差し出したのだ。

 元橋教諭は、同僚からも、教え子からも、その親たちからもずいぶんと人望を集めた人格者であったらしい。あるとき、PTAからの強い推薦で教頭への就任要請があった際、これを固辞し、一教諭であることにこだわった人物であった。その元橋に可愛がられ、影響を受け、その反骨を受け継ぎ、僕にまでたっぷりとそれを注ぎ込んで、僕の人生をずいぶんと不器用なものにしてくれたのが、父、福田守(旧姓、山口)である。元橋教諭と、父に関する余談をもうひとつ。

 あるとき、職員室に泥棒が入り、教員たちの机の引き出しが、散々に荒らされた。にもかかわらず、元橋の机は無事だった。彼の机に手を出してはいけないと泥棒も思ったらしかった。難を逃れた机がもう一基あった。山口のものである。もっとも机にとっては山口が座った時点ですでに災難であって、泥棒に荒らされなくても十分に持ち主によって荒らされていた。ぺーぺーの山口のそのような机から金目のものを発掘する作業は、割に合うものではないと泥棒も判断したらしい。それが同僚たちの一致した見解であって、幸いにも山口が真っ先に疑われるという災難にはならなかった。ともかくも、泥棒は「この机には手をつけてはいけない、この机には手をつけても割に合わない」といった内部事情に詳しいものの仕業だった。この重要な証拠を、泥棒は馬鹿正直に残していった。が、事件は内々に処理されたそうだ。当世の感覚ならば、学校の面子を保とうと事件を隠滅した、と思われるかもしれない。が、そんなことではない。当時、田舎の中学には、まだまだろくに飯も食えない、月謝も払えない生徒がざらにいた。そんな時代のことである。

 話を戻す。
「そぎゃん大金ば、貰うわけにはいかんです」
当然固辞する山口に、元橋が言った。
「心配せんでん良か。こいは、ワイ(お前)の金たい」
机の件でもわかるとおり、また彼のせがれをよく知る人なら容易に想像できるように、山口は私物の管理、特にお金の管理にずいぶんと難のある性分の持ち主であった。そのことを知り抜いている元橋は、学校の事務長に、
「山口に、宿直費ば渡したらならんぞ、あい(あれ)はすぐ、飲み食いにつこてしもうて、貯めきられんけんな」
こう言って、本人に黙って通帳を作り、そこにせっせと宿直手当を入金させていた。一方山口は山口で、チョンガーの彼が、宿直室で寝るだけのことに、手当がつくとは思ってもおらず、先輩から、
「今夜、宿直かわれ」
と言われるままに、宿直をしていた。それが件の金額となったのだった。

 かくして、山口の初めての旅は始まった。石川という新卒の同僚が相棒だった。今から50年ほど前の、8月初めのことである。

 旅は、終わりにさしかかっていた。東京を発ち、信越線で直江津に出、その途中どこかで一泊し、北陸路を経由して九州へ帰る予定であった。

 その信越線は、あえぎながら峠と格闘していた。車中の山口と石川は、峠の手前の駅から乗り込んできた乗客との会話に格闘していた。何しろお互いの使う言語が違いすぎた。にもかかわらず、三十歳前後と思われるその男性にとってはホームゲームなので、意に介するところはなかった。アウェー戦を強いられている山口、石川組の圧倒的不利であった。男性は、遠方から来た二人の若いのに、親切をしたくてしようがないという風だった。また、いつも退屈する峠道が、珍しい外来種の向かいに乗り合わせたおかげで、思いがけなく楽しめそうなのを喜んでいるようでもあった。ともかく、男性が野尻の人であることはわかった。これは後の分析になるのだが、野尻湖には、外人別荘があり、多くの文人、文化人が訪れている保養地でもあったので、客人をもてなすという習慣が身についているとも感じられた。
「ワイ達はどこから来たとな?」
(ということを、もちろん信州弁で言ったのであるが、父の口調でそのまま再現するとこうなる。書いている僕にしても、母国語のほうへすっかりスイッチが入ってしまっており、こちら側へいったん入ってしまうと、容易に切り替えがきかないので、そのままで通すことにする)
「長崎から来たとです」
「よう来なさったな。今日はどこに泊まらすと?」
「直江津で泊まろうと思うとります」
「直江津てね、直江津は何も無かところよ。野尻に泊まらっさんね」
このような会話の後、二人は半ば強引に柏原の駅で降ろされ、バスに乗り込んだ。まだ日は残っており、周辺の景色の見えるたそがれ時であった。バスが柏原駅を出てまもなく、ここが小林一茶の故郷だということを男性は話した。バスは、木炭自動車だった。それは山口にも、石川にも相当珍しいものであった。それが柏原から野尻に向かう坂道を、えっちらおっちら登る様が、印象的だった。ようやく坂を上りきってまもなく野尻のバス停についた頃には、日がすっかり落ちて、あたりは真っ暗になっていた。

 バス停から連れて行かれた宿までの行程が、タクシーかなんかに乗り換えてのものであったのか、それとも、徒歩によるものだったのかについての、父の記憶ははっきりしない。ただ、男性の知り合いらしい宿に連れて行かれ、その前で一時(いっとき)待たされた。その間に、男性は宿の女将さんに二人の客人のことをよろしく頼んでくれたらしく、女将さんにはずいぶん親切にしてもらった。ただ、真っ暗ななかに待たされている間は、
「おい達ゃ、大丈夫かな」
と、ずいぶん不安な思いをしたらしい。

 宿の旦那に関する記憶は、まったく残っていないそうだ。それが若さゆえによるものか、女将さんが一人で切り盛りしている宿であったのかは、定かではない。

 翌朝起きて初めて、湖のすぐ近くの宿に泊まったということを知った。高台から湖面を見下ろすというロケーションではなく、まったくの湖畔の宿だった。天気が良く、九州の夏ではまず味わえない高原の冷気が新鮮だった。件の男性は山口たち二人を宿に案内すると、一人でさっさと歩いて家路についた、その印象も、同様に涼やかなものだった。

野尻湖1

  「おとさん達、写真の一枚も、撮らんやったと?」
「いっぱい撮ったとばってん、石川さんに貸してやったら、返さんまま死んでしまわしたとさ」
「そりゃ惜しかったね。そん頃からある宿やったら、数の限られとるけん、探せば見つかるかもしれんね。そんおじさんも、宿の女将さんも、まだ元気しとらすかも知れんよ」
「そうたいね」

 この6月、父から旅のいきさつを詳しく聞いてみようと思い立ったのは、宿を探し出すのも一興という気持ちがあったのは事実だった。父のほうの写真は失われたとしても、昭和30年頃の野尻湖周辺の写真ならば、探せばいくらもあるだろうし、記憶をたどりながら湖畔を歩いてみれば、たどり着けないこともないだろうとも思える。ただ、残念ながらその方法は、望み薄になってしまった。今4歳になる長女の誕生の少し前から、父の視力は急激に失われ、現在では、ほとんどものを見るということができなくなってしまっている。そして何よりも肝心の父のほうに、宿を探し出したいという気持ちは、ほとんど無いようだ。父にとって、このエリアは、若い頃旅した思い出の地ではなく、現在、息子夫婦と孫達が暮らしている地として位置づけられているように見える。話を聞きながら気がついたのだが、僕自身の気持ちも、宿を見つけ出したいのではなく、僕の知らない父の姿を、僕の中にとどめておきたいというものだったようだ。僕が生まれる前の父に、この地に住む誰かが確かに出会い、言葉を交わした。湖もそんな父を見た。そのことだけで十分な気がしたのだ。

 父のここ数年は、「晩年」への、抵抗戦である。だが気の毒なことに、彼はその言葉のすこぶる似合ってしまう風情の人なのだっだ。 2005,11,11

追記
 この拙文が誰かの目の触れることがあるとすれば、間違いなく野尻湖に対して一方ならぬ愛着を感じている方によってだろう。その方々からすると、これが、野尻湖を大してほめていないと感じられて、ご不満かもしれない。

野尻湖2  父から聞いた話を、野尻の人の目にできるだけ触れる形で書きたいと思っていたところに、野尻湖フォーラムから「何か書いてみない?」と言われて、渡りに船で引き受けた。だが、書き始めてみると、「宿探し」の期待だけではずくなしの僕が何時間か机の前で頭をひねる動機にならないことに気がつき、弱った。「父を書こう」と思い直してようやく書けた。まるで、孫の運動会ビデオを、部下に見せて閉口される中小企業の部長みたいになっちゃったとの思いがないわけではない。それでも、できるだけそうならぬように気をつけて書いたつもりではいる。

 野尻湖を大好きな人が読むものに、大して野尻湖をほめてない文章を投稿する、という程度だから、僕の反骨心も、ずいぶんと器の小さなものだ。それは認めざるを得ない。

 

*プロフィール*
1989年北海道大学理学部中退
1989年〜1998年 長野県信濃町で、雑木林の手入れを学ぶ
1998年〜 里山コンサルタント『かけす』の看板で、山仕事一般を生業として現在に至る
信念:
里山は、人にとって非日常ではなく、「日常的な空間」である。
里山は、人の欲望が健全に発揮された結果保たれる。
したがって、再生もしくは創出すべきは「森や林」ではなく「やま」である。
「妙高高原町山里案内人会」幹事
自然学校「ねぎぼうず」講師  里山教室「杣小屋」代表
自然体験活動リーダー(CONE)
長野県森林整備技術者

 

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