2015年7月夏・編集発行・野尻湖フォーラム

信州打刃物の里に残る「中村家住宅」

野尻湖ナウマンゾウ博物館 渡辺哲也

先に述べたようにこの地は鎌の一大産地であり、鍛冶屋の多くは鎌のみを作る鎌鍛冶であるが、その中にあって中村家は特異な存在であった。中村家に掲げられた看板には「桑切庖刀製作所」とあり、養蚕が盛んな時代に桑切り用の包丁製作を前面に出していた。

 中村家での鍛冶仕事は通常、二人でおこなわれていた。親方の与平さんは横座に座り、作業台である金床をはさんで反対側に長い柄の鎚をもつ妻のフデさんが立つ。火で熱した鉄を金床(かなどこ)の上で交互に打って鉄を鍛えるのである。フデさんの役割は向鎚(むこうづち)といい重い鎚を何度も上げ下げする重労働である。この向鎚が動力ハンマーという機械に替わり、他の鍛冶屋さんではこれを導入することで、一人で仕事ができるようになったのである。

 中村家では動力ハンマーを導入することなく、平成5年(1993)に与平さんが亡くなられるまで鍛冶が営まれた。この鍛冶場が使われ始めたのは明治38年であるからそれほど古くはない。しかし、動力ハンマーを導入せず、燃料にはコークスや重油ではなく、昔から使われている松炭を用い、鞴(ふいご)によって手動で火床(ほど)に風を送っていたのであるから、平成の時代まで明治の頃と変わらない方法で仕事がおこなわれていたのである。明治の鍛冶が江戸時代の鍛冶とそれほど変わっていないとすれば、江戸時代と同じような鍛冶がここでおこなわれていたことになる。文部省唱歌「村の鍛冶屋」で唄われた風景そのままの鍛冶場がここに残ったのである。

 

 


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