2018年7月夏・編集発行・野尻湖フォーラム

野尻湖の思い出(1)

秋元摩那

 今から60年ほど前、私の父が野尻湖の「ふみの丘」という所に友人達と土地を購入し、山小屋を建てた。国際村に別荘を持っていらした岡野繁蔵という方が日本人のための別荘地として開発されたのがここであった。初めは1軒100坪単位で道は各自が供出、家もA,B,Cの3つのタイプから選ぶということであった。当時のことは『黒姫山つづれ暦』(岡野薫子著 新潮社)に詳しく書かれている。

 山小屋が完成したというので初めて出かけたのが、小学校2年生の冬休み。布団などの荷物はチッキで柏原駅の日通へ送り、長靴にリュック、鍋、釜背負っての旅支度。年末の特急「白山」は満員で、辛うじて連結器の所に場所があり、幌の破れ目から外が少し見えて雪が段々深くなっていくのが不安だった。

 柏原駅で降り、バスで大平へ。駅から18号へ出る道沿いに見た明専寺の姿は今でも目に焼き付いている。雪も深く両親も姉もこんなに雪のある所は初めてで、途方に暮れながら家にたどり着くと、まだベランダはできていない、椅子もテーブルもない、というなんとも無謀な旅だった。それでも赤倉へスキーに行ったり数日間山小屋生活を楽しみ、帰りは蔵王のスキー学校へ行く姉に家族全員でついて行くというこれまた無謀な旅を続けた。

 このようにして始まった野尻の生活も、井戸とプロパンガスがあったので特に不自由は感じなかった。薪でお風呂を焚くのは私の係、このお陰で今でも暖炉に薪をくべるのが得意である。周りが皆知り合いだったので、親が居なくてもどこかの家でご飯をご馳走になったりしていた。

 夏は「ふみの丘」専用の桟橋とボートがあったのでお昼の用意して朝から湖に出かけ、夕方まで桟橋かドラム缶を繋ぎ合わせた浮桟橋の上で過ごす毎日だった。  ⟩⟩⟩

 


文頭へ前へ次へ